るり るらら

寒さが和らいだ折、それに見合わない重いアウターを着て、日付が変わるころ、私は韓国人女性の部屋へ出向いていた。
彼女の部屋の真向かい、二車線を挟んだ先には餃子の王将があり、約束の時間まであと少しあったのでチャーシューメンを注文し時間を潰す。
店内は脂で床の粘度が高くなっており、それが服に付着するのが嫌だな、韓国と中国で多国籍だな、など素早く駆けるどうでもいいことを考え、食べ終わり水を飲む。カルキの味がする。
呼ばれれば行く、呼ばれたあとはこちらから連絡を取らない、厳しく課したルールではないが、なんとなくそのようになってしまっていた。

ある女性に呼ばれたとき、先にシャワーを浴びた彼女のケータイが鳴っていた、魔が差したのか、好奇心に勝てなかったのか、私はそのメールを見てしまった。
「もう無理、ホテル入ったから」といった、ああ、痴話喧嘩に巻き込まれての逢瀬だったのね、と知り、手を尽くして、見た痕跡が残らないようにしてから、浴室から出てきた彼女に軽いハグをした。

あれはいつのことだったろうか、二歳上の人妻と夜の三条通りを歩いていると、ふいに彼女が、ここ お義母さんもよく通るのよね、と宛先の分からないことを呟いた。
少し背筋が寒くなったが、恐怖を与えることを目的としたものでなく、自嘲のようなものだと思った。

大学のゼミ飲みに学部生でありながらしれっと参加し、あることないことを話しては話し、自分の輪郭をぼやけさせてから、なにしろ私は休学から戻ってきた訳ありの学生なのだ、どうやら最後の話題らしい、どの仏像が最も美しいか、という議論に参加した、私は、中宮寺の伝如意輪観音像が最も美しい、と声を挙げたが、技巧的に劣っている、歴史的に重要でない、などの理由で即座に撥ね付けられてしまった。
その帰り道、教授と帰路を共にしていたところ、バーに行かないか、と誘われた、駅の地下街にある、狭く、しかし清潔感と猥雑さがある、二階建ての店だった、私たちは二階にあがり、備え付けられた丸テーブルに身体をあずけ、まず教授がエールビールを注文し、君もそうしたまえ、と言うのでそれに倣った。店内はサラリーマンらしき男性の吐息が混ざるようで、私たちは顔を近づけ、小声で会話をした。エールビールが運ばれてきた、小さな乾杯をし、二人でそれを口内で舐めた。しばらくして、教授が言った。見たまえ、こんな酒があるのに、周りの連中はそこいらで売っているような
ビールを飲んでいる、なぜだと思うね?
審美眼がないからだよ
それを聞いて、選民的、と思わずにはいられなかったが、人文系の大学教授などこうした性質でないとやっていけないのかもと思ったし、私自身、確かにそうだな、と納得するところがあった、教授とは駅で別れた。

私は家の二つの部屋を占領していた、一つ目は二階の洋室、二つ目は一階の和室、和室には掘り炬燵があり、私はそこに布団といくらかの漫画を置き、狭いスペースで
ひとがなるべく快適に居られるよう工夫を施してあった。広島から来た女性は、ネットを介して見るより美しかった。本人曰く、わざとそうしているとのこと、それ以上理由は深く聞かなかった。
同居している父に見つからないように、そして、非日常を楽しむように、私は彼女を掘り炬燵に招待し、それから一週間ほど、お互いに服を着ず睦みあう生活が続いた。
時はバレンタインデー近くだった、三日目の昼間、彼女と布団で寝ていると、渡したいものがある、と、二つの塊がそれぞれ鍵と鍵穴になっているチョコレートをくれた。私はそのとき遠距離恋愛中で、この女性もそのことを知っていた。私は、自分の好みなのだから仕方がないが、興味深いひとが好きで、そうしたひとは大抵人格が破綻していた。九州まで会いに行き三日間を過ごしたのち、まだ学生だったが大きい車に乗り家は三階建てで右目は歯科医の愛人をしていたときに殴られ義眼になったとわざわざ取り出し見せてくれた、そうした女性と連絡も不定期、打てど響かない、九州に住みながら
早稲田大学に通う意味の分からなさ、などなどのことがあり、すっかり精神を磨り減らしたときに、広島の彼女はやってきた。ただまあ、鍵のチョコは意味が深すぎやしないかい、と思ったが、私は束の間でも一緒にいてくれる、包み込んでくれるような彼女に惹かれた。しかし、ついぞ、彼女と別れるから私と付き合ってくれない?とかいう言葉は出なかった。

法隆寺に行きたい、と広島から来た彼女が言った。ここは奈良で、法隆寺まではバスで一本だったため、雨がしとど降る中、私はそれを快諾した。
その頃は美学にあまり興味がなく、寺社仏閣の良さも分からなければ、彼女が見たいという仏像についても無知だった。法隆寺に続く石畳に併設する奈良漬け屋で、これが美味しい、これが美味しい、と言いながら試供品を食べ比べ、結局なにがしかを買った。法隆寺に近づくにつれ、彼女の横顔に翳が深くなっていった、気がした。
法隆寺を参拝し、見たいと言っていた仏像がある中宮寺に向かう。入場料を払い、十畳ほどのお堂に通され、ひとしきり仏像についての説明を受けたあと、鎮座する伝如意輪観音像を拝観する。
その柔らかな水で撫でられたような艶、古びた様子を全く感じさせない、後光と見紛うような照り返し、中性的でありながら確かな威厳を感じさせる存在感、優しい威光、それら全てに魅入られ、私は、私たちは罪をどこかに置いてこれたのではという、大きな錯覚に陥った。帰り際、バスの待合室で雨音を聞く、雨の日ばかり 君に会って、という文章を書いたなと思いだす。
彼女の翳は、誤魔化しているものの誤魔化しきれないものになっており、私は早くバスが着けばいいのに、と、長く感じる時間の首筋を噛むように、このまま居たい、ここから出たい、という
アンビバレンツな感情を持って、そこに立っていた。

大学で論文を突き返された、提出期限を大幅に過ぎているのだから当然ではあるのだが、どこかで、私の優秀さに教授も甘い顔をするのでは、と、甘い甘い甘い考えを持っていたが、現実は、来年またおいで、の、価値判断もなにもない真っ当な一言で終わった。そのあとなにをしたかは、あまり覚えていない。

あんな一週間を過ごしておいて 私はここにいる、などという文が広島の彼女から投稿された。それきり、彼女とは連絡を取らなくなってしまった。

今日は誰に呼ばれたんだっけ、今日は誰が来るんだっけ、よく分らないまま時は過ぎ、雨音はここに持ってこれないほど過去になった思い出に変わる。

文章を綴る。これがなければ呼ばれることも呼ぶこともなかっただろう。セックスで射精しない、抗鬱剤の影響だろう。いろんなひとの情に、少しでも引っかからない特性を持っていて良かったと思う。数年後に持ち越せる気持ちなどない、と、今を生きる少女を家庭教師が励ますシーンがあった。気持ちは残っていないが、もう一度、誰かになにか言いたかったな、と、話し相手がいない夜に思う。審美眼って、そんなに必要?私には、よく分からない。

 

だりだり

十年後にはほかの男のことで一喜一憂している、十年後まで持っていける気持ちなんてない、って言葉は救いのようにわたしの胸を打ったけれど、それは十年後に未来が見えるひとにとってそのようにあり、切り崩せる若さなる財のもとはじめて成立するものなのかもと思ったのは同じ言葉を読んでわたしの心に少し暗い影が落ちたことに起因して、いつも仲良しでいいよねって言われてブルーになんてならなかった、それは過去に対する文言であり、今をそのように思うには、わたしは楽しすぎた。彼はいつも甲斐甲斐しくわたしを悦ばせ、わたしはいつも新たな悦びをぎらぎらと狙っていた。それすらあとになって分かることで、わたしは彼の寂しさや嫉妬、違う天井を見ていたんじゃないかって覗き込むようにわたしの目を見るその仕草、ご飯やぬくもりを、費やしたものや孤独を、共に依存しあい舐めあうその関係に、変わり得ぬもので足を引っ張るもの、だからわたしは輝けないのだわとそれらに唾を吐いていて、唾で出来た温泉に浸っていてわたしはぷかり夢心地であり、それはなにより気持ちよくて、いつか破綻させるのも悲しく成就させるのも、すべてわたしの胸先少しと、信じなければ温泉は枯れてしまいやがて見知った寒風に肌から心のやらかいところまでズタズタに荒らされてしまう、とても恐ろしい想像は数年に渡りわたしは夢想の中に留まり続け緩慢な時間は悲しい成就でもいいよねと呟き続け、そとを知り得ないわたしの孤独と怠惰も風呂上がりに見える道と同じく毎日ようよう白くなりゆく山際の入眠にすべて掻き消されていった。
「このあいだ、十年前に大好きだったアニメがまた映画になったから観に行ったんだ、誘ってもあなたはついてきてくれなかったから、アニメは分かんないって、意外だった、あなたはわたしが誘えばどこでも、国が違っても、ついてくると思ってたから、十年前にとても好きだったそれ、それは勇気のアニメになっていてね、わたしは主人公にとても感情移入していたし反発もしていたし、夢中で閉塞していた、留め置かれればなにものも侵し得ない、絶対恐怖領域を固めていたけれど、いまの彼はあまり恐怖しないの、するけれど乗り越えて踏み進むの、なのに全開って、それを発動させるの、なんだかヘンなのって思ってね、彼はこんなに勇気リンリンなのに、すごく求めるところに進んでるくせに、なんで同じことで打開しているのかしらって、このままハッピーエンドになればこのアニメから解放されるかも知れないって言ったひと、たぶんそれは希望を込めて、がいたけれど、十年経つと未練も無くなるのかな、わたし凄く楽しく観てしまって、次も楽しみ、同じスタッフで作る二次創作のようね、なんて自分で言ってそこに違和感を覚えていたのだけれど、それは、でも変わらない本物はわたしが持ってるから、って未練だったのかしらね、かっこよくなったねなんて勝手に言わせないでって、勝手な言葉、それがあるのかもしれない、でも、楽しかった、思い出の中の都合のいいネタにしていたのに、だって楽しかった、楽しかったのよ、とても」
彼は話を聞き終わるとしばらくして、好きな人が出来た、君と出会ってはじめて人を寝室に入れた、と語り始め、さいごに、友達になろう、と言った。君は常々、友達はいい、友達は別れないから、誰と一緒にいても誰もが離れる、でもあなたは友達だから、って、なぜ彼氏になれないのかを訊く僕に、そう言い続けていたよね、そうして君の願う方に向かおうと、やっと思えたのが数ヶ月前で、ほかのひとを好きになれたんだ。
友達になってくれるよね。
泣いて話す言葉から彼が今まで知ってきた様々な感情をようやく体感させられ、温泉は枯れたのだと知った。それは寒風のようにあり、その子に飽きたらまた戻ってきなさいとしか言えず、ただすすり泣きが重なって、こんなに長く誰かに浸かっていたのははじめてだから、誰かと離れるとき、年をとるなんて知らなくて、わたしとてもこわいと訴えるその手は年をとっていて、白くなりゆく窓がひどくおそろしく思えた。
あのセリフ、十年後には他の男のことで一喜一憂している、十年後に今抱えている問題なんて一つ残らず消え去っている、その十年後は今年の八月十七日、二日後なのだと読み返して知った。
十年前の一喜一憂に耐えるから、そこに戻してくれないかしら、自分を慰める冗談のように呟き、骨と静脈が浮いた手を見る。好きだったアニメにきょうの日はさようならが使われていた。歌う。いつまでもたえることなく 友達でいよう。持ち越せたものはなにもない。きょうの日よさようなら。窓がまた白み、外にあまり変わらない田舎町が広がる。また会う日まで。いつかまた誰かに会えるかしら。会わずにいたのは誰かしら。ここはいったいどこかしら。物語はまだ半ばにも達しておらず、それはただの劇中歌である。わたしの温泉になれるかな、と手を見る。あえて逆光にする。OK、まだ大丈夫。

ボーナストラック・トゥ・オ×ラル・イン・ザ・ワールド 

人間学園の校舎裏、木々が直進することを阻む程度には繁っているここは、緑葉に陽が寸断され、いつも間接照明のような仄暗さで、涼しい風が時折吹いた。枯葉が舞い、いつか僕らも枯れていくんだ、なんて、声には出さないけれど人がよく思う陳腐な感傷を、心で呟いた。僕たちには学生服があって、僕たちには校舎がある、でも、それはひと時の陽光で、いつか寸断されるときを待っている、僕の闇は、彼まで届くのかな。
木陰に金髪の少年が座っていた。千人の手と百人の命を吸った上質に過ぎる砂に洗われたような薄い金の絹は、緩い曲線を描き肩口まで伸びている、少し伸ばしたのだろうか、彼は明日には短髪になっているか知れない、見蕩れているとその薄絹が織り成す万華鏡が陽の下で僕を惑わし、妖しさに倒れてしまいそうになる、すると、きっと彼は声も掛けないだろう、でも、僕が目を覚ましたとき、僕の肩を刺繍が入った白いハンケチーフが温めていて、それが誰のものだか、すぐに分かるのだろう。彼はそのようにいるし、彼はいまも小説を読んでいる。
声を掛けたい、髪に触りたい、なんならこの手で白い肌に触れて、今まで言えなかったような酷い言葉や愛の澱を曝け出してみたい、そう、今すぐにでも!とは思うけれど、僕は彼がするような唇は出来ない。微笑んでいるのか、冷酷な思いつきに濡れているのか、それとも小説の中に、今日も世界には美しさがあった、と歓喜を見ているのか、あんな唇は僕にはできない。彼の唇を模写することもあった。彼の髪を描き出そうとしたこともあった。彼が地に垂らし撓む学生服の皺は、なぜだか描く気になれなかった。僕がこのような情念にかられていると、いったい誰が知ろうか、もしかしたら学園の基礎知識なのか知れないし、僕一人の胸に永遠にしまわれる秘密なのか知れない。誰か夜に僕の部屋に入り、濡れた唇でそれを奪い去らない限り、永遠にしまわれる僕だけの秘密なのか知れない。
彼から十数歩はあろうか、ここにいる僕を認め、彼は一瞥した。そして、口の端と、僕の見間違いでなければうなじの髪を数本煌かせ、こちらに来いよ、と合図を送った、いつも通りの、彼の仕草だ。
僕がいま持っているノートの中身を見せてあげようか。君に対する愛と憎悪に溢れた、固まりに固まった蛹が見せる脆さと自然の情念を湛えた、小さな字の夜の詩さ。光が濃くなると、闇も濃くなるって、必ず一回は聞いたことがあるフレーズ、あれをよく思うんだ、光が何気なく動き、光が何気なく佇み、光が当たり前に光として眩く眩く輝いていると、僕はたまらなく書き散らしたくなるんだ、闇としてしか存在できない、木陰にすらなれない、違いをただ書き散らしたくなるんだ。
どうしたんだい?と、眼前に彼の顔が現れる。白い肌は百の春風が羽毛を彫刻した残り香さえ置き去るように、青い目はどこまでも深く、唇は妖しく、髪は惑わせる。失語したまま美しさに呑まれ、またも僕は尻餅をついた、これも、彼への、毎回の挨拶のようなものだ。
なんでもないよ、君の姿が見えたから、声を掛けようとしただけさ、今日も君は小説と木陰が似合うね、僕は彼への称賛を隠さない、それは称賛しているときだけ、彼との間に架け橋が出来るような、そんな気分になるからだ。称賛を幾つか並べる僕は、僕が知る中で最も至福に満ちた僕だ。
そう、と一言呟いて、彼はまた木陰に座り、小説に目を遣る。僕はその目にもう映っていない。風が出てきたね、僕はそう呟く、枯れた葉が舞うだけさ、彼は答える、枯れた葉に興味はない?、僕は尋ねる、陽の光があるだろう 小説もある 君もいる 十分さ、彼は答える、もう一言、学生服を着こなしている人といない人がいる 僕らは学生服を着なくてはいけないのに そして僕らは学生服を着られるのに 枯れた葉の事は 彼らに任せるさ、僕はあまり学生服の着方に気を遣ってはいない、彼はオートクチュールの美しさをもって、そこにある。靴の先から伸びる細い脚は、黒い稜線のように僕を阻んだ気がした。ここからは、出れないんだと。
僕は彼の肩を掴み、ノートを投げ遣り、木の根に告白するように言った、僕は、彼はするりと抜け出し彼にも体重があるんだと、手に残った感触に全ての嫉妬を投げかける、彼を知るために、僕はこれ以上どうすればいい?
彼は右手一指し指の先で僕の唇に触れ、今日も君の唇は綺麗だね、と言った。
はっとして、目の前を見ると、彼は木々の中に揺れていた。こちらを見て、一言、今日の君は とても光っていたね ご覧よ 校舎が 君の光で白んでいるよ、と、手折れそうな腕を掲げた。
呆ける仕草で上を見遣ると、彼の姿は無くなっていた。
葉の上に、彼が読んでいた小説があった。題名をリリスといった。
人は誰もいない部屋の中では寝られない。そこではリリスに押さえつけられる。どこかで聞いた文言を諳んじる。そう、彼に押さえつけてもらえなければ、僕は眠ることもできやしない。
僕は君の何になれる?そう呟いて、本を手に取る。君が見た光は、きっと月が反射した太陽さ。
リリスを読む。美しい、彼の髪のように、と、また僕はペンを走らせる。
学生服は、僕らを包む。

クシャマインについての二三の事柄

そこにそれはあった。橋を渡ると木造の家屋があり、そこにクシャマインが詰め込まれていた。番をしているフレッジと目があった。「ここを出るのかい?」「ああ、ここはもう僕を必要としていないからね」フレッジはクシャマインの守りをして随分経つが、まだ若い青年で、外に出るには問題のない体と知性を備えていた。「どこへ行くんだい?」「ここが見えないところさ」フレッジの顔をまじまじと見た。褐色の肌の頬に赤らみが見え、それを僕は美しいと思った。「君ならどこでもやっていけるさ」「ありがとう」「じゃあ、さようなら」
一匹の獣がいた。家屋の中に進入しては子どもや大人分けず食べ、毛並みが薄い白銀に輝き、速く走る獣だった。
かつてフレッジはその獣を一人で退治したことがあった。その時、皆はフレッジを村の英雄のようにあらゆる酒で祝福し、褒め称えた。それから獣は一度も現れなかった。フレッジは少年の末から青年の始まりに移り、皆は獣のことと、フレッジのための晩餐を、すっかり忘れてしまった。灯りの中で白桃の酒を飲むフレッジは、やはり褐色の肌をしていたが、そこに若い輝きを見せていた。頬が赤く染まっていたか、炎のオレンジ色が彼を照らしていたので見えなかった。
フレッジが村を出る。その首には、獣の毛でこしらえた、鉄の輪に白銀の糸がふわふわと並ぶ、きれいな首飾りが掛かっていた。
フレッジが村を出た。誰かがクシャマインの守りをするのだろうが、それはまだ何も決まっていないことだった。
僕は草が生え揃う中、一部だけまばらになった箇所を見た。そこは獣が襲った家屋があった場所で、家屋が薪と荼毘の材料になったあとは、誰も手を付けていない場所だった。それが村の人々が思うかなしみの表現であり、そこには草があまり生えなくなった。
墓は村の外れにあった。そこに、フレッジからもらった、獣の毛の一本を、そっと添えた。
辺りは青い空が布の色を濃くしていき、覆われた僕たちはやがて家に帰る時間になっていて、墓の周りにも、遠くの畑にも、誰もいなかった。ここからクシャマインの小屋は見えなかった。
白銀が夜に差し掛かるまでの、恐らく最後の光に触れ、白く光った。
フレッジからこの光は見えないだろうと思った。僕も、家に帰らなければ。

鼻フック町

僕らの町ではみんなが鼻フックをしている。誰が決めたのか、何かの罰なのか、それはわからない、けれど、この町ではみんなが鼻フックをしている。僕は高校生で、いまは昼休みなので彼女と校舎裏の旧用務員室で睦みあっている。僕らの町では、鼻フックをお互いに交換し装着することが、そういったエロい事だとみなされている。だから僕らも鼻フックをどんどん交換する。そして装着する。また交換する。また装着する。どんどん相手が出した液体が自分の鼻に入ってくる様子は、他の町の住人からみても、じゅうぶんにエロスを感じられるものではないかと思う。
僕らは存分にお互いの鼻フックを交換し合った。もう昼休みは終わっている。受験対策授業で、またクラスメートと僕らの机に、コピープリントが配られているのだろう。ほとんど皆町を出る。町を出て、鼻フックの存在しない町へと行く。鼻フックが隠された町へと行く。僕らはまた鼻フックを交換し始めた。一時間おきに鐘が鳴る。僕らはずっと鼻フックを交換し合い、ただ夜を待った。日毎にプリントは増えていく。僕らは毎日交換する。僕らは既に受験に対し関心のない生徒として先生から関心を無くされている。僕らの机にプリントが配られなくなった。ただ日々が過ぎていき、僕らの鼻フックは明らかに同年代のものより色が濃くなっていた。
僕らは学校の裏山で鼻フックを交換していた。彼女は鼻フックを交換することが好きだった。僕よりも彼女が鼻フックをより交換したがった。彼女は言った。「あなたが大学に受からなかったら、私のせいね」僕はそういう口をフックで吊り上げ、また鼻フックを交換し合った。僕らはただ鼻フックを交換し続けた。斜向かいの家では既に推薦合格者が出たらしい。彼は町を出る。僕らは鼻フックを交換する。
次第に学校は僕らのいる場所では無くなっていき、僕らは互いの部屋で一日中交換し合う日々を続けた。あたたかい部屋の中、布団に包まって鼻フックを交換し続ける。時が止まったのかと思えば、気付けば暗くなっている。「あなたのより歪んだ顔が見たいの」彼女のこの言葉で、僕の鼻フックはリール付きの強力なものとなった。僕らはあたたかい部屋で鼻を吊り合った。僕の鼻は彼女のリールさばきによりさらに上を向いた。学校では私学受験者直前授業が行われている。斜向かいの彼は既に町を出ている。ただ冬が深まっていく。「もっとあなたを歪ませたいの」僕のフックはより鼻に食い込むロングタイプとなった。
合格者がちらほらと出始めた。雨の翌日に水溜りが凍った。彼女の欲求はどんどん高まっていった。彼女は申し訳程度に僕の鼻フックを装着すると、あとは思うさまリールを巻き上げ、僕を吊り上げた。国公立の受験が迫ってきた。僕らは部屋で睦み合っていた。初雪が降った。僕は地元の学校は一校も受けず、遠い大都市の国立大学だけを受験した。彼女は地元の私学に行くと言っていた。「そんなところ受けれるんだ」「うん」「ふーん」「地元の大学は受けないの?」「うん、担任も、あそこが受けられるなら地元はうけなくていいって言ってくれたから」「ふーん、そう」「そうなんだ」
僕らは鼻を吊り合い、彼女はより僕の鼻をきつく吊った。僕は部屋でふたり鼻を吊り合うたび、時が止まったのかと思っていたが、しかしやはり、やはり夜は訪れた。いつも、一度の例外もなく。
僕が大学を受けて地元に帰ってきた翌日、彼女は別れを切り出した。僕は強力な鼻フック着用を平時も義務付けられており、声が多少鼻にかかったものになっていたが、それでもその声で必死に彼女を説得した。なぜそうなるんだ、なぜそうなるんだ。僕には何一つとしてわからなかった。彼女は数日後、僕の家にある彼女のものを取りに顔を見せた。彼女は、あのリール付きの鼻フックも私に渡してくれ、と言った。何に使うんだ、と言っても、彼女は苦笑もせず不愉快そうな表情を向けるばかりだった。
春が来て、僕は大学に落ちていた。僕と彼女の共通の知人から聞いた話だと、彼女は私学の二次募集に合格しており、今は女子大生として普通に鼻フックをつけて生活しているという。彼はこうも言った。「こんど合コンしようって彼女に言われたんだけど、お前も来るか?」
僕は今も鼻フックの町で、一年前より多少上を向いた鼻を気にしながら、一年前とほぼ変わらない生活を送っている。リール付きの鼻フックはどこかで使われているのかなあ。そう思うと、この町のすべてが嫌になる。僕は一年前とほぼ変わらない生活を送っている。鼻フックを外して、フックの匂いを嗅いでみた。そこには僕の体液の匂いしかなく、他には拍子抜けするほど何も無かった。

うずうず

 吹き抜ける夏の風は過去に感じたようなそれではなく単なる風であった。きっと気候の変化だろう。わたしは何も変わっていない。そう思って携帯電話を取り出し、男の名前をランダムに選んだ。食事をしませんか、と誘うと、おう珍しいな、と、二つ返事だった。彼はわたしのように痩躯ではなく、体育会系を通過してきました、とTシャツの文字のゆがみによって主張するような、いわゆるマッチョにあたる。わたしの好みではない。しかし夏の風は誰か男の脇から香らせねばならないのではないか、と、陽物が主張する。わたしは陽物でものを考える。牛には胃が四つあって、油虫は胴体にも脳がある。きっとそういうことだ。彼が車で迎えに来たので、助手席に乗り、肩に寄り添ってみた。おかしみを誘う狙いだと解釈したのだろう、やめろよ気持ち悪いな、と体型に似合った力で振りほどき、発車させた。何が食べたい、と訊かれたので、さっぱりしたものがいい、と答えた。車は定食屋に着き、わたし達は暖簾をくぐった。暖簾がはためいたとき、わたしは彼の後ろに立っており、意識的に大きく息をしてみたのだけれど、かつおだしだろうか、そのような香りが店内から漂い、意図せずわたしは本当におなかをすかせた。彼はヒレカツ定食なる彼にふさわしいものを選び、わたしは冷奴と蒸籠そばを注文した。扇風機は野球中継をより暑苦しいものに変え、わたしは既に彼を見ていなかった。ヒレカツ定食が運ばれてきて、大きな口に油分に濡れた肉が挿入される。それを見てもなお、注文したものに気を取られていたので、携帯電話を弄り、彼の電話番号を消した。やがて豆腐が運ばれてきた。滝に長年うたれた自然石のような緑の光沢をそなえた葱が、その傍らに流れる清い水に洗われつづけた潤いを宿した豆腐を冠するように備わっている。わたしは醤油のびんを片手にもち、ゆるやかにそれをかたむけた。小虫が雫を舐めるように、白い柔肌を伝っていくその様を見て、わたしは席を立った。代金を置いて、店外に出る。夏の風を感じる。すぐに使うのはもったいないね、と、わたしは陽物を撫でた。

「ハクション」


 「ハクション」

雨が降っていた。僕は彼女に旅の土産を渡そうと、帳が降りた後雨が降りしきる中、傘もささずインターフォンを鳴らした。僕は彼女にいろんなものを突然贈りに行ったが、ほんとうに渡したいものは目の前の唐突に誘惑されて、知らないうちに雨で錆びたのだと思う。
彼女の淫らは一見するに分からなかったが、そういうものだと思うし、そうなるものだとも思う。そう、ただそれだけを続け、障子から射す淡い陽光が彼女を陰に隠し、冬の風が繋ごうとした手と手の間を吹き抜けていくうちに、それは空の下美しく光れなかった、どこにでもある綺麗な花であったと、桜と桜の間に知った。
ぼくは、くみちゃんのたんじょうびかいによばれて、いきました。くみちゃんは、ケーキをたべて、みんながいたので、ぼくはゲームをしていました。ぼくはくみちゃんがすきです。ケーキにちかづいたらあかるくてあつかったのでいたかったです。
原動機付き自転車は僕の行動範囲内を越え、どこまでも走った。それは一つの崩壊が作る粉塵のようなある勢いであったのか知れない。どこか知らない駅で、控えめに言って醜い女と待ち合わせ、主婦が忙しそうに気だるそうに、波にさらわれるをよしとするように歩く大型スーパーの障害者用トイレで性交する。埃にまみれた蛍光灯は、全て平等に照らし出す。
大阪の知らない街で、けばけばしい化粧をした女と待ち合わせ、性交する。ネオンとタクシー、それだけ。
知らない街の女と性交し、その友人と性交する。街の夜を駆け抜けて、男が逃げた部屋を明るく照らし、居るという合図を受ける。
カーテンがあまり白くならない日、趣味が悪い、と言われ彼女は泣いた。好きな人は誰か、と問われた挙句の、よくある話だが、対象者がどうやら僕だったらしく、僕は自分を指差し、俺?俺?と、間抜けに真顔で左右を見渡す。
キャラクターグッズが好きな彼女は、それと同時に彼のことも好きで、キャラクターグッズになれなかった僕は、階段で通じない言語で話すかのごとく、そう、キャラが生まれた国の言葉かも知れない、ただ彼女に話した単語数を多くする記録会に臨んでいた。蛍光ペンは、彼女のノートをいつまで光らせただろうか。
粉塵はどこまでも広がり、視界がぼやけた挙句、ケーキの味も淫らの愛情もインターフォンの鼓動も全て消え去ったかに思えたが、矢張り雨が降りしきる夜、寺とラブホテルで煌く視界を共有し、二人は黙って、ただ黙って、その後の、たとえば雨が止んだ後のこととか、を、ただ黙って考えていた。
古都に浴衣と蕎麦はよく似合う。続けて言うなら川沿いの串焼き屋に、酔いの火照りと冷静な算段もよく似合う。飲み屋通りの提灯が空気を暖色にし、まだ残る団扇は涼しいと言った彼女の声を残すようだが、旅館の光が深夜の罵倒でふっと消える。その後の言葉は、そう。
ただ黙ってガードを固めているところに、すっと救いの歌が差し伸べられたら、それは言わずもがなスポットライトの合図なのだが、歌い手は壇上からすぐ居なくなるものである。スポットライトは消え、上手下手もわからないまま、次の台詞、次の公演に向かわなければならない。粉塵は、光が消えるようだ。
  

原動機付き自転車で川に出かける趣味も、帰宅とともに郵便受けを確かめる癖も、全ては王子様を待つ町娘の気分なのだが、男という何か欠けた、それは絶対的なものかも知れない、性に生まれた僕は、王子様とは道ならぬ恋に走るしかない。それとも傍使いの小姓になって、王子に忠誠を誓おうか知らん。やはり、男は欠けている。王子様をただ待てない。それだけで、そう思う。ある日の日記に今とは少し違う字で、僕の書いた文があった。彼女と食事に出かける時間だが、天気が曖昧で、どうにもプランが立てられない。たまの休みなので満喫したいのは確かだけれど、彼女は来月イタリアに絵を習いに行く。こんな日は湿ったビリヤード台のように、思うところに玉が転がらないもので、果てさてどうしたものかと考えるけれど、彼女は美しく、きっと僕は彼女がとても好きだ。雨が降りそうになって来た。僕はシャワーを浴び、車のキーを回し、エンジンをかけ発車する。MDからはこんな言葉が聞こえてくる。「10年前の僕らは胸を痛めていとしのエリーなんて聴いてた」。僕は車を走らせる。雨の日ばかり 君に会って、なんて言葉を呟いて、ケーキでも食べに行こうかと考える。車のアクセルを少し強めに踏み、好きな彼女の元へ走る。車を運転できるようになって少しばかり経つ。カーライトは前方を照らし、10光年離れたところに今届く。錆びた匂いがする。