ボーナストラック・トゥ・オ×ラル・イン・ザ・ワールド 

人間学園の校舎裏、木々が直進することを阻む程度には繁っているここは、緑葉に陽が寸断され、いつも間接照明のような仄暗さで、涼しい風が時折吹いた。枯葉が舞い、いつか僕らも枯れていくんだ、なんて、声には出さないけれど人がよく思う陳腐な感傷を、心で呟いた。僕たちには学生服があって、僕たちには校舎がある、でも、それはひと時の陽光で、いつか寸断されるときを待っている、僕の闇は、彼まで届くのかな。
木陰に金髪の少年が座っていた。千人の手と百人の命を吸った上質に過ぎる砂に洗われたような薄い金の絹は、緩い曲線を描き肩口まで伸びている、少し伸ばしたのだろうか、彼は明日には短髪になっているか知れない、見蕩れているとその薄絹が織り成す万華鏡が陽の下で僕を惑わし、妖しさに倒れてしまいそうになる、すると、きっと彼は声も掛けないだろう、でも、僕が目を覚ましたとき、僕の肩を刺繍が入った白いハンケチーフが温めていて、それが誰のものだか、すぐに分かるのだろう。彼はそのようにいるし、彼はいまも小説を読んでいる。
声を掛けたい、髪に触りたい、なんならこの手で白い肌に触れて、今まで言えなかったような酷い言葉や愛の澱を曝け出してみたい、そう、今すぐにでも!とは思うけれど、僕は彼がするような唇は出来ない。微笑んでいるのか、冷酷な思いつきに濡れているのか、それとも小説の中に、今日も世界には美しさがあった、と歓喜を見ているのか、あんな唇は僕にはできない。彼の唇を模写することもあった。彼の髪を描き出そうとしたこともあった。彼が地に垂らし撓む学生服の皺は、なぜだか描く気になれなかった。僕がこのような情念にかられていると、いったい誰が知ろうか、もしかしたら学園の基礎知識なのか知れないし、僕一人の胸に永遠にしまわれる秘密なのか知れない。誰か夜に僕の部屋に入り、濡れた唇でそれを奪い去らない限り、永遠にしまわれる僕だけの秘密なのか知れない。
彼から十数歩はあろうか、ここにいる僕を認め、彼は一瞥した。そして、口の端と、僕の見間違いでなければうなじの髪を数本煌かせ、こちらに来いよ、と合図を送った、いつも通りの、彼の仕草だ。
僕がいま持っているノートの中身を見せてあげようか。君に対する愛と憎悪に溢れた、固まりに固まった蛹が見せる脆さと自然の情念を湛えた、小さな字の夜の詩さ。光が濃くなると、闇も濃くなるって、必ず一回は聞いたことがあるフレーズ、あれをよく思うんだ、光が何気なく動き、光が何気なく佇み、光が当たり前に光として眩く眩く輝いていると、僕はたまらなく書き散らしたくなるんだ、闇としてしか存在できない、木陰にすらなれない、違いをただ書き散らしたくなるんだ。
どうしたんだい?と、眼前に彼の顔が現れる。白い肌は百の春風が羽毛を彫刻した残り香さえ置き去るように、青い目はどこまでも深く、唇は妖しく、髪は惑わせる。失語したまま美しさに呑まれ、またも僕は尻餅をついた、これも、彼への、毎回の挨拶のようなものだ。
なんでもないよ、君の姿が見えたから、声を掛けようとしただけさ、今日も君は小説と木陰が似合うね、僕は彼への称賛を隠さない、それは称賛しているときだけ、彼との間に架け橋が出来るような、そんな気分になるからだ。称賛を幾つか並べる僕は、僕が知る中で最も至福に満ちた僕だ。
そう、と一言呟いて、彼はまた木陰に座り、小説に目を遣る。僕はその目にもう映っていない。風が出てきたね、僕はそう呟く、枯れた葉が舞うだけさ、彼は答える、枯れた葉に興味はない?、僕は尋ねる、陽の光があるだろう 小説もある 君もいる 十分さ、彼は答える、もう一言、学生服を着こなしている人といない人がいる 僕らは学生服を着なくてはいけないのに そして僕らは学生服を着られるのに 枯れた葉の事は 彼らに任せるさ、僕はあまり学生服の着方に気を遣ってはいない、彼はオートクチュールの美しさをもって、そこにある。靴の先から伸びる細い脚は、黒い稜線のように僕を阻んだ気がした。ここからは、出れないんだと。
僕は彼の肩を掴み、ノートを投げ遣り、木の根に告白するように言った、僕は、彼はするりと抜け出し彼にも体重があるんだと、手に残った感触に全ての嫉妬を投げかける、彼を知るために、僕はこれ以上どうすればいい?
彼は右手一指し指の先で僕の唇に触れ、今日も君の唇は綺麗だね、と言った。
はっとして、目の前を見ると、彼は木々の中に揺れていた。こちらを見て、一言、今日の君は とても光っていたね ご覧よ 校舎が 君の光で白んでいるよ、と、手折れそうな腕を掲げた。
呆ける仕草で上を見遣ると、彼の姿は無くなっていた。
葉の上に、彼が読んでいた小説があった。題名をリリスといった。
人は誰もいない部屋の中では寝られない。そこではリリスに押さえつけられる。どこかで聞いた文言を諳んじる。そう、彼に押さえつけてもらえなければ、僕は眠ることもできやしない。
僕は君の何になれる?そう呟いて、本を手に取る。君が見た光は、きっと月が反射した太陽さ。
リリスを読む。美しい、彼の髪のように、と、また僕はペンを走らせる。
学生服は、僕らを包む。